大阪地方裁判所 昭和47年(ワ)1246号 判決 1983年2月25日
原告
三島守
同
三島宣宏
同
亡三島正男訴訟承継人
小松喜美子
同
同
土井義子
右四名訴訟代理人
中村信逸
稲波英治
中島馨
池田容子
被告
大阪府
右代表者知事
岸昌
右指定代理人
本田良博
外二名
被告
岡田清文
右被告両名訴訟代理人
泉政憲
主文
原告らの請求を棄却する。
訴訟費用は原告らの負担とする。
事実
第一 当事者の申立
一 原告ら(昭和四七年三月三〇日送達の訴状に基づく請求)
1 被告らは、各自原告三島守、同宣宏に対し、各金八〇〇万円、原告小松喜美子、同土井義子に対し、各金四五〇万円と右各金員に対する昭和四七年三月三一日から各支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。
2 仮執行の宣言。
理由
一訴訟承継前の原告亡三嶋正男が亡三嶋静の夫であり、原告らがいずれも右夫婦の間に生まれた実子であること、被告大阪府が府立病院を設置して診療業務を行い、被告岡田が同病院に勤務している医師であることは、当事者間に争いがない。
二府立病院における静に対する診療と同人の死亡に至るまでの経過
静がかねて罹患していた脱肛痔について昭和四六年六月一六日府立病院で被告岡田の診察を受け、同月一八日同病院に入院し、同被告から同日から二三日にかけての保存血液による輸血ならびに二三日脱肛痔の手術を受けたが、術後経過が良好で全治退院したこと、次に、同女が七月二一日同被告に左乳房の「しこり」について乳癌か否かの診察を求めたところ、同被告は、乳癌の疑いがあると診断し、二八日それを全部剔除した上、八月五日から二二日にかけてコバルト照射を行い、二三日同被告の執刀で乳癌剔出の手術を施行し、九月八日から二八日までコバルト照射を行つたのであるが、二九日同女に劇症肝炎の症状が出て、一〇月一日午後三時四五分同病院で死亡したことは、当事者間に争いがない。
右争いのない事実と、<証拠>を総合すると、以下の事実を認めることができる。
1 静は、昭和四二年ころから脱肛があり、昭和四五年ころから時々肛門出血があつたところ、出血量が多くなつたので、昭和四六年六月一六日府立病院を訪れ、被告岡田の診察を受けた。同被告は、痔核の合併した脱肛と診断し、一週間分の痔疾治療薬等を与えて経過を観察するよう指示した。ところが、同月一八日肛門の大出血があつたといつて静が再び同病院を訪れたので、同被告が診察したところ、顔面蒼白で脈搏が微弱であり、貧血状態であつた。そこで直ちに緊急入院させ、緊急の血液検査をしたところ、ヘマトクリット(血球の血液中に占める容積比)17.5パーセントと、女子の正常値四〇パーセントに比べてはるかに低い数値を示していて、高度の貧血症であつた。同被告は、静に絶対安静を指示し、トラサミン等四種類の止血剤を注射して止血を図る一方、保存血液四〇〇ミリリットル(一本二〇〇ミリリットル入の瓶二本)を使用して輸血したところ、同女が全身掻痒感を訴えたので、その日は三〇ミリリットル残して輸血を中止した。翌一九日にも静に約二〇〇ミリリットルの肛門出血があつたので、同日から二二日まで毎日保存血液四〇〇ミリリットルの輸血を続けたところ、二三日の血液検査ではヘマトクリツトが三七パーセントを示す程に貧血の改善が見られ、手術適応の状態になつた。そこで、二三日被告岡田が執刀して静に対し痔核脱肛根治手術が施行された。同女の脱肛痔は痔核に脱肛が合併したもので、その痔核は大きく、脱肛症としては重症であつて手術中にも出血があり、術後も出血の危険があつたこと、さらに二一日に実施した心臓検査で同女に心筋障害が認められたことなどから、術後同女に四〇〇ミリリットルの輸血がなされた(以上合計輸血量二三七〇ミリリットル)。静は、術後経過は良好で、脱肛は治癒し、七月三日退院した。
2 静は、被告岡田の指示により、退院後も右手術の予後の経過観察のため、一、二週間毎に府立病院に通院していたが、七月二一日来院した際「昭和七年以来左乳房にしこりがあるが、乳癌か否か診断してもらいたい。」旨申し出た。
そこで、同被告が触診したところ、左乳腺に約四平方センチメートルの拇指頭大の腫瘤が認められ、乳癌を疑つた。しかし、正確な診断をするため、同病院放射線治療科の東巌医師に左乳房のレントゲン写真撮影による診断を依頼したところ、同医師からは、右診断の結果乳腺腫瘤はレントゲン写真では明らかでなく、確実な悪性像は認め難いから、経過観察して腫瘤の病理検査をするよう回答があつた。そこで、被告岡田は、静の承諾を得て、同月二八日同女の左乳房の腫瘤約三平方センチメートルを剔除し、同病院中央検査室に回して検査してもらつたところ、八月二日同病院研究検査科部長村田吉郎医師からは、「病理検査の結果、腫瘍は乳腺の浸潤癌の硬性癌型(癌細胞が浸潤拡大し、遠隔転移する性質のもの。)で、極めて悪性の乳癌である。」旨の診断結果が寄せられた。同被告は、東医師にその旨連絡し、再度レントゲン写真を検討してもらつたところ、同医師も乳癌であると確定的に診断した。そこで、同医師と同被告が相談した結果、コバルト照射による放射線療法を施して剔除手術をする必要があるということになり、同月四日静に右の経過を知らせて承諾を得た。そして、東医師は、同月五日静が放射線療法に適応できるか調べるため、血液検査、肝機能検査、検尿等前記一覧表1記載の各検査を実施したところ、同記載の検査結果が出たので右療法に適応し得ると判断し、同月五日から一三日までの間合計八回、一回につき五〇〇レントゲンのコバルト照射を静の左乳腺の癌病巣部位になした。静は、一九日同病院に入院し、肝庇護剤等の点滴注射がなされた後、二三日被告岡田の執刀で癌に罹患している左乳房全体を剔除する手術がなされた。(手術の方法は、腋窩から乳房中枢へ切除する逆行性切断術)。同日血液検査をしたところ、ヘマトクリットは三三パーセントで少し貧血気味なので、術後六〇〇ミリリットルの輸血がなされた。その後栄養剤の点滴注射、止血剤、強心剤の注射がなされ、静の術後経過は、良好と見られた。
3 その後、癌細胞が他へ転移するのを防止するため、九月八日から放射線療法が再開され、一日二三〇レントゲンのコバルト照射が、リンパ腺転移が可能な頸部、左腋窩、左鎖骨部になされた。そして、東医師は、九日右放射線療法再開にあたつて静の肝機能等前記一覧表3記載の各検査を実施したところ、同記載の結果が出て、肝臓障害が認められたので、その治療のため、同日からグロンサンC、ストラーゼ等の強肝剤、肝庇護薬の点滴、筋肉注射が毎日行われ、その後同月一八日、二五日の二回前記一覧表4、5記載の各検査が実施された。ところが、静は、同月二一日ころから腹部不快感、食欲不振等の自覚症状を訴えていたところ、二七日に三七度八分の発熱があり、二八日午後の被告岡田の回診で顔面、眼球結膜に軽い黄疸が出ているのが認められたので、同被告は、血清肝炎の発病を疑い、東医師と相談して安瀬療法を採る必要から放射線療法を中止した。その時点で静は、全身倦怠感を訴えていたが、全身状態は末期的症状を呈していたわけではなかつたところ、二九日午前三時ころから心悸亢進、脈搏微弱、血圧低下を来たして呼吸困難となり、全身に黄疸が顕われ、同日の肝機能等の検査では前記一覧表6記載の結果が出(検査結果が判明したのは静死亡後である。)、劇症肝炎になり、さらに重篤な心筋障害も出た。同被告は、今までの点滴、注射等を中止し、肝庇護食を供与して副腎皮質ホルモン、強心剤、抗生物質、肝庇護薬等投与して治療に努めたが、静は、一〇月一日午後三時四五分同病院で死亡するに至つた。
<反証排斥略>
三静と府立病院の設置者たる被告大阪府との間に脱肛痔の治療および左乳房の「しこり」の医学的解明とその治療を目的とする診療契約(包括して一個の該療契約か、それぞれの目的をもつた別々の診療契約かという点については、当事者間に争いがあるが、この点はしばらく措く。)が締結されたことは、当事者間に争いがない。そこで、上記の診療経過に基づき、同被告の履行補助者たる右病院の医師被告岡田が、静の健康改善に向けてその時点の医学水準に照らし、適切、妥当な診断と治療方法を実施するという診療契約上の債務の履行に欠けるところがあつたかどうかにつき検討する。
1 原告らは、被告岡田が静に不必要に大量の輸血を施したため血清肝炎が発生したと主張するところ、同人の血清肝炎罹患が同被告の行つた輸血に基因するものであつた疑いは、後述のとおり同被告本人の供述によつても濃厚といわねばならない。しかし、前認定のように、同女の痔疾患は重症でたびたび肛門出血があり、同女は入院時、生命に危険が及ぶ程の高度の貧血状態に陥つていたのであつて、脱肛痔の根治手術をするにはまず手術適応の状態に改善させるため輸血して貧血を治す必要があつたものであり、血清肝炎の罹患をおそれて輸血をしないでおくことが医師の選択すべき途であつたとは考えられず、静に輸血したことについて同被告に注意義務違反はない。
また、<書証>「対角線図表」によると、静の入院時の体重が四七キログラムであつて、体重四七キログラムの患者がヘマトクリット二〇パーセントの場合約二二〇〇ミリリットルの輸血が必要というのであり、前記のように五日間で一九七〇ミリリットルの輸血をしたところヘマトクリット37.5パーセントを示すまで貧血が改善されたが、<書証>(「麻酔科入門」と題した書籍)によると手術前値としてはヘマトクリット三五パーセントが許容範囲最低値というのであつて、以上によると、同被告は、必要最小限度の適正量の輸血をしたのであつて、この点についても注意義務に違反するところはない。さらに、前記認定事実を勘案すると、手術後四〇〇ミリリットルの輸血をしたのも相当と認められる。
2 原告らは、輸血する場合は保存血液ではなく、親類等から直接採血して行うべきだつたと主張する。しかし、<書証>(「血液事業の現状」と題する厚生省出版物)によると、昭和三九年八月献血を推進する閣議決定があつて、保存血液が買血によつた制度は改められ、昭和四四年以降は買血はなくなり、昭和四六年六月ころは保存血液中献血によるものが九八パーセントを占めるようになつたのであり、献血による血液も採血後日本赤十字社血液センター等で諸種の検査を実施してそれに合格したものでなければ供給されず、一般の病院でもこのような保存血液を使用しての輸血が行われていることが認められ、これによると、保存血液を使用した点について被告岡田に過失のかどはない。
3 また、原告らは、輸血に際しては血清肝炎予防のためにガンマグロブリンを注射すべきであつたと主張するが、<書証>(「血清肝炎」と題する上野幸久著書)にはガンマグロブリンに血清肝炎の発病予防効果があるという報告もあるが、同号証には、また全く効果がないという報告もあり、また、<書証>(九州大学医学部法医学教室発行「臨床と研究」第四八巻第一一号・昭和四六年一一月)ではガンマグロブリンは輸血後肝炎の予防に無効との報告があり、これらからしてこれを使用しなかつたからといつて被告岡田を非難すべき理由はない。
4 原告らは、被告岡田が血清肝炎の潜伏期に肝機能検査のGOT、GPT検査等を実施して早期に右発病を発見して治療すべきであつたのに、これを怠り、九月二一日から静が訴えていた自覚症状についてもコパルト宿酔と誤診して、有効な治療措置を講じなかつたと主張する。
血清肝炎の潜伏期(輸血後二週間ないし六ケ月であることは、当事者間に争いがない。)に医師は諸種の検査を通じてその早期発見に努めなければならないことは、被告らも認めるところである。そして、<書証>(上野幸久の著書)ならびに<証拠>によれば血清肝炎に罹患すると潜伏期の後患者は全身倦怠感や食欲不振等の自覚症状を訴えるようになり(前駆期)、その後黄疸が顕われて右自覚症状と、他覚的所見として肝腫大、肝圧痛、肝臓部の叩打痛があり(黄疸期)、肝機能検査では、GOT、GPTは四〇以下が正常値であるところ、血清肝炎に罹患すると、これが五〇〇以上に急上昇することが、さらに、<証拠>によると、血清肝炎の本態、原因については未だ医学上定説を見ないが、一応、主としてB型ウイルスが人間の血液に混入していて(無自覚、無症状の潜在的保菌者いる。)、そのウイルスを含んだ血液が輸血された場合、感染により発生するとされており、輸血後肝炎の発生する割合は、約一〇ないし二〇パーセントであること、ウイルスの本態が不明であるのでウイルス感染を防止したり、根治する治療法は開発されておらず、結局対症療法、それも一般的な肝庇護療法しか採り得ないことがそれぞれ認められる。
しかるところ、静に対し八月五日から九月二五日までの間五回にわたり前記一覧表記載の諸検査が実施され、同記載の結果が出たことは、前記認定のとおりであり、同被告本人の供述によると、アルブミン(肝機能が弱まると数値が下がる)、グロブミン(肝機能が弱まると数値が上がる)の成績は五回ともおおむね正常であり、黄疸指数は正常値を示しており、八月五日、九月九日の二回実施された肝機能検査ではいずれも正常値よりやや高いGOT、GPTの数値を示しているが一般に血清肝炎が発病している場合に示される数値の五〇〇ないし三〇〇〇台に比べれば低く、九月一八日、二五日のLDH検査(癌の転移を調べるもので、肝炎でも上昇する。)ではいずれも正常値(一五〇ないし四五〇)の範囲内であつたというのである。さらに証人東の証言および同被告本人の供述によると、手術後同被告が毎日回診して静の容態に注意を払い、東医師も一週間に一、二回定期的に診察していたが、同女の全身状態は良好で、特別な自覚症状を訴えることがなく、黄疸は出ておらず触診しても肝腫大、肝圧痛、叩打痛が認められず、臨床的所見では全く異常なところが見当らなかつたこと、ところが、静は、コバルト照射が再開されて一三日目の九月二一日ころから食欲不振、腹部不快感等の自覚症状を訴えるようになつたが、それ程強いものではなく、全身状態は、まず良好と見られたところ、一般にコバルト照射を施した場合、一〇日目ころからコバルト宿酔が生じて、右同様の症状を呈することがしばしばあり、同被告は、静の前記状態を勘案してコバルト宿酔に罹つていると診断したことが認められる。しかし、静に肝臓障害が認められたのでその治療のため、同被告が肝庇護薬、強肝剤の点滴、注射を継続して行つて肝臓庇護に努めたことは、前記認定のとおりである。
<証拠>には、血清肝炎の前駆期に確実にそれを診断するのが望ましいとの記述があるが、また、黄疸期になつて血清肝炎を診断してその治療を始めても手遅れではないとの記述もあり、右認定事実を勘案すると、本件のように、コバルト照射の継続実施中、黄疸や他覚的症状の顕われる前の時期において、被告岡田が、血清肝炎の前駆期に生ずる症状と同様のコバルト宿酔の症状を呈している静について、同女の全身状態、諸種の検査結果等を参考にして、第一にコバルト宿酔と診断して血清肝炎の罹患を認めなかつたことを非難するのは、酷に過ぎるといわねばならない。
原告らは、八月二〇日梅毒のワッセルマン反応が陽性を示した時点で血清肝炎を疑つてさらにTPHA反応等の精密検査をすべきであつたとも主張するが、<証拠>によると、血清肝炎に罹るとそれだけの原因でワッセルマン反応が陽性を示す場合もあるが、その確率は決して大きいものでなく、昭和四六年当時は外国の文献にはそういう報告があつたが、まだ臨床上の研究は進んでいなかつたこと、当時、梅毒の検査は本件でも使用したガラス板法、緒方氏法の二方法が一般に使われていたので、TPHA方法はまだ一般に普及していなかつたことが認められ、この点についても被告岡田を非難することは、相当でない。
もつとも、前認定のとおり、同被告が静の血清肝炎罹患を確知したのが死亡の数日前のことであり、結果的に遅きに過ぎた疑いがあることは、否定することができない。その段階では静の死亡を阻止する手段が尽きていたのではないかとも思われるが、同被告において右罹患に対応すべく必要な措置を講じたことも、前認定のとおりである。
以上要するに、静の血清肝炎罹患に対する措置について同被告に注意義務の懈怠を認めることは、困難である。
5 原告らは、血清肝炎の潜伏期に被告岡田が不要な乳癌の手術やコバルト照射を行つたため、静の血清肝炎が劇症化して死亡したと主張する。
<書証>(「日本臨床」一九六四年五月)、第九(「臨床と研究」第四八巻第九号)、第一一号証(同)、ならびに、<証拠>によると劇症肝炎とは、また急性黄色肝萎縮症とも呼ばれ、血清肝炎の重い症状を呈するもので、発生率は、輸血患者の0.1ないし0.2パーセントであるが、その発生機序、原因が不明で、発病前にその予測をすることは困難であり、積極的な予防法はなく対症療法を施すしか手立てはなく、死亡率は九五パーセントと高いことが認められる。そして、前記認定のように、静が九月二一日ころから食欲不振や腹部不快感を訴えていて、いわば血清肝炎の前駆期にあつた時期にコバルト照射を継続していたところ二九日になつて容態が急変して劇症肝炎になつたというのであり、<書証>には、劇症肝炎(それも静が罹つた電撃的劇症肝炎)の中には、「通常中等症の経過をとつているが、コバルト六〇照射などが原因で途中から急に増悪して劇症肝炎(急性肝萎縮症)になる場合がある」旨の記述があり、劇症肝炎の発生原因がいまだ解明されていない現在、コバルト照射が原因で静に劇症肝炎が発生したとの疑いも全くないわけではない。
しかし、他方、<書証>(「臨床放射線」昭和四八年一〇月)では、一般にコバルト照射による放射線療法を続けても肝機能に影響を示すような変化はないという報告もあり、証人東の証言および被告岡田本人の供述によると、府立病院で放射線治療科開設以来、癌手術で輸血した後コバルト照射を実施した例が多いが、それが原因で劇症肝炎になつて死亡した症例はないというのであり、<証拠>によると、一般にコバルト照射を続けると、その影響で白血球が減少することがあるが、静の場合白血球数は九月九日四七〇〇、一八日五四〇〇、二五日四八〇〇と正常値を示していて、コバルト照射の白血球に対する影響はなかつたことが認められる。
さらに、前記認定のように、静の罹患していた乳癌は極めて悪性で転移しやすく、<証拠>によると、その治療のためには緊急に剔出手術をする必要があつたが、それだけでは根治せず、癌細胞の侵潤、転移を防ぐためにさらに術前、術後にコバルト照射による放射線療法を施して癌細胞を完全に撲滅することを試みなければならず、癌の治療としてこれらの方法が一般に実施されていたのであり、そして、前記のように、被告岡田らは、コバルト照射を施行している間も肝臓庇護のために強肝剤等の注射を続け、また、諸種の検査を実施したが、静に特別異常な結果は出ていなかつたというのである。以上によると、静に乳癌の手術を施行してコバルト照射を続けたことが劇症肝炎を発生させる一因となつたか否かも明らかでないし、被告岡田が上記の事情を勘案して右各療法を採つたことについて非難されるべきところはない。
以上の次第で、被告大阪府の履行補助者である被告岡田は、静の治療につき当時の医学水準に照らしむしろ適切、妥当な診断と措置を行つたと窺うに十分であるから、被告大阪府の債務不履行責任に基づく原告らの請求は失当である。
そして、右によれば、被告岡田には不法行為を構成すべき過失が認められないから、これを前提とする原告らの両被告に対する各請求も失当であることに帰着する。
四さらに原告らは、被告岡田が正男の名誉を毀損したと主張するが、これに対する当裁判所の判断は、次のとおりである。
<証拠>を総合すると、以下の事実が認められる。
被告岡田は、八月五日、二〇日の二回、府立万代診療所に委託して、静に対し、ガラス板法(沈降反応による)、緒方氏法(補体結合反応による)の二方法による梅毒反応の有無の検査を実施してもらつたところ、二回とも、両方法ともに陽性を示したので、静が梅毒に罹患しているものと信じた。ところが、静は九月二九日になつて容態が急速に悪化し、心筋障害を起こして心臓衰弱が激しくなり、三〇日強力な強心剤を注射しても静に全く反応が認められなくなつた。そこで、同被告は、前の検査結果から判断して静の心臓衰弱が甚だしいのは、劇症肝炎に加えて梅毒もその一因をなしているのではないか、と考え、静が重態となつた三〇日夕方看護婦詰所に正男を呼び、同人に、回復見込の薄くなつた静の病状等について説明し、その中で、梅毒検査で陽性と出ており、容態が悪化しているのは梅毒の影響もある旨述べ、さらに一〇月一日、同所で静の姉の井上ハルと原告小松喜美子にも、同趣旨の話しをしたところ、これは、静の節操を信じている正男とその近親者達にとつて全く想像の及ばぬところであつた。
<反証排斥略>
以上によると、正男にとつては、妻である静が危篤状態に陥つた時期に、被告岡田から、同女が梅毒に罹つている旨の思いもかけない話を聞かされ、衝撃を受けて感情を害したことは容易に推認し得るところである。しかのみなず、証人津上の証言によれば、静につき施されたガラス板法および緒方氏法による検査結果では、梅毒罹患の事実がなくとも、血清肝炎などの場合でも陽性反応が出る事例がないではないことが認められるので被告岡田が認識し、かつ正男に告知したところの静の梅毒罹患がはたして真実であつたかどうかにも疑問があるとせねばならない。しかし、当時一般梅毒罹患の有無を調べるための検査方法として採用されていたのは、やはり右の二方法であり、これによる陽性反応が必ずしも梅毒罹患を意味するものでないという認識は、当時臨床医師の間において十分に普及していなかつたことも、前記認定のとおりである。それ故、同被告が前示二回の検査結果において陽性反応が出たことから静が梅毒に罹つていると考えた点について過失があるとは断じ得ず、そうとすれば、看護婦詰所で正男らに静の病状等の説明をする中で、同女が梅毒に罹患している旨言及したことが、いわずもがなのことであつたという批判が成り立ち得るかもしれないにせよ、その時期、場所、方法等において特に不穏当であつたとも考えられず、それが直ちに違法で正男に対する不法行為を構成するものであつたとは認められない。よつて、被告岡田が正男の名誉を毀損したことを前提とする原告らの被告らに対する損害賠償請求も理由がないものである。
五よつて、原告らの請求は、いずれも失当であるから、これを棄却することとし、なお、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八九条、第九三条を適用して、主文のとおり判決する。
(戸根住夫 大谷種臣 木下秀樹)
別紙
三嶋静に対する肝機能検査の結果一覧表
回数
1
2
3
4
5
6
7
8
年月日
S46.8.5
46.8.18
46.9.9
46.9.18
46.9.25
46.9.29
46.10.1
46.10.1
検査項目
総蛋白(g/dl)
6.5
7.6
7.4
6.2
6.3
アルブミン(g/dl)
3.1
3.9
3.9
3.4
3.1
グロブミン(g/dl)
2.9
3.7
3.5
2.8
3.2
A/G(比)
1.07
1.05
1.11
1.21
0.97
コバルト反応
R5(6)
クンケル
7
9
黄疸指数
6
4
60
75
GOT
76
68
6600
1300
262
GPT
98
140
6400
1750
1650
アルカリクオスファターゼ
7
15.9
総コレステロール(mg/dl)
195
L.D.H
(ウロブリュウースキー単位)
350
390